京都大学名誉教授 佐藤文隆

 
 

玉城嘉十郎教授とそのレガシー

玉城先生は1886年(明治19年)生まれで、京大の物理に入学されたのが1907年、1913年に助教授になっておられます。アインシュタインが特殊相対論を出されたのが1905年、そしてこの1913年というのはミクロの物理学が実験的にいろいろ分かってきたときです。1918年から2年間イギリス、アメリカ、フランスに留学され、1921年に物理学第二講座の教授に就任します。1929年から33年あたりに、湯川、朝永が玉城研におりました。1938年に急にご病気でお亡くなりになって、その翌年湯川が後任教授に就きました。

湯川は学部を卒業、4年程して今の非常勤講師のような身分で量子力学の講義を始めます。その講義を最初に聴いたのが坂田昌一、次の年が小林稔で二人とも教授になっています。1949年には湯川、1965年には朝永、2008年には坂田の弟子の小林誠、益川敏英がノーベル賞を受賞しました。大変な宝が玉城研から生まれたと言えます。

 

新しい物理学、量子力学の完成と当時の京大の物理学

19世紀に産業革命が起こり、力学に加えて光学、熱力学、電磁気学といった物理学が理論化されます。1895年頃からX線、放射線、電子線が次々と発見され、プランク、アインシュタインやボーアの活躍があり、1925年-27年くらいに量子力学が完成します。ちょうどその時期に湯川、朝永が三高、京大の物理学教室で学び、研究生活に入りました。

1922年にはアインシュタインが、1928年にラポルテとハイゼンベルグを育てたゾンマーフェルトが京大を訪問し、和服の姿の玉城教授、湯川、朝永とともに写真に納まっています。1929年には、まさに量子力学の完成をなしたハイゼンベルグとディラックが京大を訪問しています。ですから量子力学ができたばかりの段階で、その立役者たちが目の前にやってきたわけで、湯川、朝永にとって相当なインパクトだったと思います。

1938年、玉城教授が急逝されます。

当時の物理教室の教授室は北側を向いていて、山と山が折り重なって見えます。
 

濃きあさき青葉がくれの山々を見つつし人をなつかしむかな      湯川秀樹
 

これは、湯川が教授に着任した1939年に、教授室の窓から外を眺めて玉城教授を偲んで歌ったものだと思います。

 

湯川、朝永の学生時代

湯川、朝永が京大に来たのは、1906年に京大文学部が創設されたことと関係しています。文学部の人事で、小川琢冶、朝永三十郎が着任しました。その息子が小川秀樹、結婚して湯川秀樹、と朝永振一郎です。
朝永の方が湯川より一級上ですが、病気がちで、中学の時に1年余計にいたため三高に入ったときに湯川と同期生になります。二人はずっとライバル意識があったようです。三高での力学演習の成績が残っています。朝永はコンスタントによく、湯川はいいときと悪いときがあったようです。
湯川、朝永を量子力学へ導いたのは仁科芳雄です。1931年に10日間ほど京大へ集中講義に来て、当時大学院レベルであった湯川、朝永がそれを聴きました。この仁科は量子力学が誕生するときに、ボーアの研究所、まさに量子力学誕生の中心にあたるところで研究員として過ごし、帰国してそれを広めた人です。ボーアが量子力学の成立に中心的な人物であったことを仁科は『Niels Bohr』という著作の中で「今日の純物理學界に於て,最も重きをなす世界人は Niels Bohr である.Planck 老い Einstein 衰へた今日,其右に出づるものは見當たらない」とまで言っています。ボーアも1937年に訪日しています。

量子力学の展開と湯川秀樹の中間子論発表

1927年以降は世界的に量子力学の展開が始まります。その中で湯川・朝永が、素粒子・原子核の新分野に取り組みます。その理論である相対論電子論、場の量子論に取り組みます。陽電子、中性子、重水素の実験的発見、それを理論化するフェルミの試みと続いて行きます。このフェルミのベータ崩壊の場の理論と関連して、湯川は中間子論の論文を書くわけです。 湯川は1933年に大阪大学の新設の研究室に籍は移りますが、まだ建物が無かったため1年くらいは京大で研究していたようです。そして中間子の着想を得て1935年に論文を発表します。その2年後ぐらいに中間子らしいものが実験的に発見されて、急に世界的な話題になります。すぐさま坂田昌一、武谷三男、小林稔らが湯川中間子論を2中間子論へ発展させました。 それで、湯川は世界的に脚光を浴び、1939年にソルベー会議その他の学会に招待されて欧州に向かいます。しかしヒットラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦がはじまり、予定は全部キャンセルになり、アメリカを通って帰ることになりました。アメリカを横断する間、事前のアポイントも取っていなかったにもかかわらず、アインシュタイン、フェルミ、オッペンハイマー、ホィーラーといった著名な物理学者30人以上と会っています。そして湯川は誰に会ったか克明にメモに残しています。

湯川秀樹の忘れ物

1978年、僕が基礎物理学研究所の所長をした頃ですが、物理教室で消防の指示で廊下にあった棚を撤去しているとき、風呂敷包が発見されました。これに刺激されて捜索するとほかにも湯川の阪大時代から渡米までのいろんなものが出てきました。一つは中間子論の日本語、英語の論文草稿です。さらに終戦前後の時期の日記や流体力学の講義ノートなどです。その日記には大変興味深いことが書かれています。
1945年5月31日に旧玉城研究室の人と合流して玉城先生のお墓参りをしています。もう一つは東大物理への転任の話です。終戦直前の6月末に東京に行き東大物理学教室の教授らに会い、東大転任を承諾して帰りますが、すぐ後に、やっぱり行きたくない、と辞退の手紙を書いています。ノーベル賞受賞はこの件の後ですから、もう少しで「東大の湯川」として受賞するところだったわけです。

湯川秀樹 ノーベル賞受賞とその後の活躍

1948年に湯川一家はオッペンハイマーの招待でアメリカに行き、その翌年ノーベル賞受賞となります。ノーベル賞は日本にとっては大きなニュースでしたが、当時はまだ日本は独立を回復しておらず、すべて外電による報道でした。湯川が一時帰国したのは受賞の翌年の夏であり、日本に戻ったのは1953年でした。「ノーベル賞騒ぎ」も今と違ってワンテンポ遅れの感じでした。
受賞後、初の共同利用施設として基礎物理学研究所が設立されます。湯川は所長として、その機能を活かして生物物理、宇宙物理、プラズマなどの新分野の開拓のために、次々と研究会を提唱します。湯川は所長業としても指導力を発揮し、功績を残したと思います。
それから湯川は全国をまわって国民と交流します。また、1953年には戦後では日本初の国際会議である理論物理学国際会議を開催して国際交流に貢献しました。
湯川秀樹は日本人にとっては偉人かもしれないが、世界の物理学で見てどうなのか、という意地悪な質問をする人がいます。米国物理学会と英国物理学会共同編の「20世紀の物理学」という3巻の大著がありますが、この中で重要人物として63人の伝記が記されており、湯川はその中に入っています。ちなみに1900-1990年のノーベル物理学賞受賞者は140名です。世界的に見ても別格の物理学者と言えると思います。
また物理の4つの力の中の一つを発見した人としてニュートン、アインシュタイン、フェルミ、マックスウェルらと並ぶ名前になっています。中間子50周年の年にはアメリカの物理学会の雑誌Physics TodayでHideki Yukawa and meson theoryという特集論文が掲載されています。2006年には湯川・朝永生誕100周年の記念国際シンポジウムが開催され世界中から多くの研究者が集まりました。

湯川秀樹の学術の世界を越えた活躍

湯川秀樹は、研究だけではなくて核兵器廃止などいろいろな社会活動をしています。多くの作家らとも対談をしたり、大変な文化人でもありました。数々の和歌を作っておられ、生前には473首が載った歌集「深山木」を発行し、没後には約66首の自筆歌集「蝉声集」が発行されています。
また、大変な能書家でもありました。書は基礎物理学研究所にも飾ってありますし、奥さんの南画に自作の歌を自筆で書いた作品がひろく普及しています。広島平和公園はじめ句碑も各地にあります。小川家の出身が和歌山という縁で、湯川が「松下幸之助君誕生の地」の石碑の揮毫していた縁で、基礎物理学研究所50周年のおりにパナソニックから多額の寄附を頂き、研究所のパナソニックホールができました。

科学と国民的レガシー

1983年にNatureが「日本の科学」を特集し、1987年にはPhysics Todayが「日本の物理」を特集しました。それくらい湯川、朝永の業績をベースに日本の物理学は進歩しその存在が大きくなりました。しかし戦後日本を代表する人物を問う戦後70周年の世論調査では、湯川秀樹は田中角栄、美空ひばり、長嶋茂雄より後の10位でした。大きな業績を上げた科学者でも国民の中にはあまり溶け込んでいないということです。
19世紀末に国民国家が科学文化の舞台装置となり、国家が主体となって文化の中に科学者を溶け込ませようとする努力が払われています。イギリスでは偉大な科学者はウェストミンスター寺院に納められます。国の事業であった切手にも科学者などの文化人を登場させていました。さらに大事なのは紙幣の肖像です。例えば二十世紀にはボーア、シュレーデインガー、ラザフォードなどの紙幣があり、フランスの紙幣ではキューリ夫妻だがポーランドの紙幣では夫人だけとか、またアインシュタインはイスラエルの紙幣です。日本でも既に野口英世があり、北里柴三郎が控えていますが、湯川秀樹はまだです。
僕は湯川ほどの人物は科学・学術を越えて国民的なレガシーにすべきではないかと思います。時間がたてば順番が回ってくるのかもしれませんが、是非お札の肖像に湯川秀樹を登場させようと皆さんに呼びかけたいと思います。それから国際単位は全部ヨーロッパ人の名前です。日本も世界的に、長く残る諸制度の中に日本の科学者を定着させていくということが必要だと思います。