コラム『古い文献を読むたのしみ』

コラム『古い文献を読むたのしみ』

数学・数理解析専攻(数学系)准教授 梅田 亨

 
 

撮影:河野裕昭

数学は、理学の中でも、古い文献が現代に意味をもちうる例外的な分野かもしれない。何百年も前の考えが研究の最先端に活き、「温故知新」が文字通り機能することもある。尤も、数学研究者の殆どは昔の本や論文の恩恵に浴する機会は稀だ。その稀な経験を何度かしてきた話を少ししよう。

 

それが偶々なのか、何かに導かれてなのかはっきりしないが、直接の源泉が50年前(Turnbull 恒等式)、100年前(Capelli 恒等式)、そして250年前(Euler の五角数定理)などの研究を行ない、しかも主要テーマとなった。今も尚、300年くらい前の研究に心惹かれ、解読を試みる。度重なると、自分でもちょっとヘンかなと思う。一体数学は進歩しているのか?

 

これにはいろいろ説明が考えられる。進歩と裏腹に、数学は過去を完全に消化することができないほどに多様な考え方を蔵している、というのが一つ。また、「証明」は一つあれば「正しい」ことを保証するので、誰もありとあらゆる証明にまで気を配る余裕はない、もある。さらにまた、数学は「論理」の世界なので「歴史」の真相なんて大して重要視しないとも(これはおおっぴらに言うと問題だが)。

 

教科書でも、時代の「型」(流行)を伝えるのが優先され、昔の考え方が淘汰されることもあれば、逆に一つの古いものがいつまでも幅を利かすこともある。数学と歴史の関係もなかなか微妙なのだ。

 

ところで、歴史ある京大は貴重な文献も数多く所蔵する。折角の至宝だ。少しでも活用したい。古い論文や書籍からも、興味深いさまざまな発掘が実際に可能だが、あまり顧みられないのは残念だ。最近、京都市に寄贈された桑原武夫の書物が、遺族に無断で廃棄との心傷むニュースがあった。保管場所の問題なら他人事とは思えない。単純な経済原則が学問に優越するのは何かの衰退の徴候だろう。数学固有の文化を幅広くたのしめる贅沢がいつまでも京都に残ってほしいと願うのだが。